87歳の父、余命1ヶ月と言われてからの奔走

80代の両親と、これからのこと奮闘中!

[26]母を連れていかないで

母はひとりでいるとほとんど何も食べません。風呂にも入らず着替えもしません。これがセルフネグレクトというのでしょう。

 

引っ越してそのままになっていた段ボール箱から、以前母が可愛がっていた、おしゃべりする人形を探し出しました。1人で寂しい思いをしている母の相手をしてくれるのではないかと期待していたのですが、人形は何も話さなくなっていました。

電池を交換しても変わりません。ずいぶんと古いものだったので壊れてしまったようです。それを見て母は、

「寿命が来たのね、なんでも古くなると寿命が来るのね」

と、ぽつんと言いました。

わたしは返答に困って「そうなのかしらね」と曖昧に呟くだけでした。

 

「ちょっと横になるわね」と、ヨタヨタしながら、母はまたベッドにもぐってしまいました。すぐに苦しそうな寝息が聞こえはじめます。その顔はとても生きている人のようには見えず、少しずつ命が尽きていくような弱々しさでした。

 

「パパ、ママを連れて行かないで!」

 

眠っている母の手を握って祈りました。

「パパ、ひとりで寂しいんだろうけど我慢して。まだ連れて行っちゃダメよ。やっとパパの介護から解放されたんだから、もう少し自由に暮らさせてあげて」

お願いします!

 

[25]親戚の気持ち

父を火葬した次の日の夕方、実家を訪れますと驚くことが起こっていました。

 

父は5人兄弟の2番目で、兄がひとり、弟がひとりと妹がふたりおります。父が87歳ですので兄弟妹も高齢です。コロナの感染者数も日に日に増え続けて衰える兆しは見えません。そのような状況でしたので、葬儀は行わず、ひっそりと母と兄とわたしの3人でお別れした次第です。

 

もちろん亡くなった日に親戚には電話で報告し、葬儀を行わないこと、お香典などはお断り申し上げたいことを伝えました。

 

しかし、父の妹家族が4人揃って実家へ来てしまったのです。ちょうどわたしも兄もいないときでした。母はずっと食欲がなく寝込んでいる状態で、支えなしにひとりで歩けないにもかかわらず、その家族を迎えるために近所の店まで香炉と線香を買いに出かけたそうです。

 

母は疲れ切っており、昼間あった出来事をわたしにしている間も、身体を起こしていられずベッドに横になっていました。

 

わたしは猛然と腹を立てていました。どうして分かってくれないのだろう? こんなに弱っている母のところに押しかけてくるなんて!

 

けれど、頭を冷やして落ち着いて考えてみると、もしもわたしの兄が結婚して家族を持っていたとして(実際には未婚でひとりものですが)、兄が亡くなり奥さんと子供で勝手に火葬してわたしにお別れをさせてくれなかったら? そう考えた瞬間、背筋が寒くなりました。

「わたし、何てことしちゃったんだろう!!」

父は脳梗塞を発症したあとから、ひとりでは何もできず、亡くなる直前は用足しも母が手伝い、まるで母の子供のようになっていました。そのような状態だったことを親戚たちは詳しく知りません。なので、父を家族だけの存在だと間違って認識してしまっていたのです。父はわたしたちだけのものではありませんでした。誰かの兄であり、弟であり伯父であったのです。どうしてそんなことに気がつかなかったんだろう? 父が亡くなって、まるで台風のように慌ただしく時間が流れて、物事を深く考えることができなかったのです。

 

会いたかっただろうな……。本当にごめんなさい……。

 

その後、伯父や叔母から母宛にお悔やみの電話がかかってきたときに、勝手に葬儀を進めてしまったことについて直接謝りました。

伯父、叔母はみな「こちらも年をとって、とても行かれなかった。詫びることなどない」と言ってくださいましたので、少し気が楽になりました。

 

しかし、母は高額なお香典の入った封筒を手にして肩を落としています。

「こんなにたくさんいただいちゃって、お返しはどうしたらいいの?」

 

父方の親戚は、父以外は皆とてもとても裕福なのです。叔母も初めて両親が暮らしている都営住宅を訪れてさぞ驚いたことでしょう。

 

何不自由のない暮らしをしている親戚たちに、いったい何を贈ればよいのでしょう?

 

 

[24]火葬4 父の骨

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葬儀社の安置所

 

父の棺が葬儀社の黒いワンボックスカーへ乗せられました。昔よく見た、金色の豪華絢爛な霊柩車はもう時代遅れで使わないのでしょうね。

 

子供の頃、「霊柩車を見たら親指を隠せ」と言われていたので、目にすると両手で拳を握り、左右それぞれの手で親指を隠したものです。両親を取られたらと考えるだけで不安でした。その後、たまたま母と一緒にいるときに、霊柩車が通ったのでいつものようにグーを握っていると、横にいた母はお腹の前でそっと両手を重ねて親指を隠し、そうすると自然に体が前方へ傾いて、車に向かって礼をするような格好になっていました。それを見て「親指を隠す」という本当の意味を知りました。故人を敬う姿だったと。

 

火葬場へ到着すると、葬儀社から紹介されたお坊さんが待っていました。頭は坊主ではなくごく普通の短髪。僧侶姿ではあるけれど、会社勤めのサラリーマンといった風情です。

 

母と兄と3人で父と最期のお別れをすると、棺は火葬炉へと納められ、金属の扉がガチャンと閉じられました。

 

炉前に、戒名の札と香炉が置かれていて、住職がお経を読み始めました。4回目の焼香です。1度目は亡くなった日、病院の霊安室で、2度目は同じ日の葬儀社、3度目は今朝清拭をする前。たった3人の焼香はすぐに済み、それに準じて短いお経も終わりました。

 

葬儀社の女性スタッフに促されて、住職と一緒に予約してあった控え室へ向かいます。「控え室」と言っても、喫茶店のような場所で、大きな部屋に7〜8人掛けのテーブルがいくつか配置されており、それぞれの遺族がお茶を飲んだり静かに会話をしています。値段によって個室や精進料理が用意されるようです。

 

30年前に行なった祖父の葬儀は豪華でした。火葬のあいだに親戚一同が通された大きな部屋には、高級な料理やお菓子がテーブルいっぱいに並べられていたことを思い出します。

 

葬儀社の女性がわたしの耳元で、「こちらで住職さまにお布施とお車代をお渡しください」と囁きました。

テーブルにお茶の入ったポットと茶碗があり、饅頭や煎餅といったお菓子のメニューが置かれています。わたしは小さなお饅頭5つセットを注文しました。1200円也。

住職の前にお茶を出し、用意しておいた『お布施』という名の法要料金が入った封筒を手渡すと、住職は短い世間話を少ししてから、ご自身がお勤めのお寺のパンフレットを置いて去って行きました。

 

1時間ほどして炉に戻ると、棺はもちろん、父の形をしたものは消えて無くなっており、カラカラに乾いた白い骨が石板の上に転がっていました。

部屋を移し、火葬場の方が丁寧に骨を集めてから、部位の説明をして骨壺に納めていきます。骨同士がぶつかり合ってシャリシャリと貝殻のような音を立てます。

 

耳の骨だといって持ち上げたものは、確かに間違いなく父の耳の形をしていました。正面からまっすぐに伸びた穴。耳の奥までよく見えて、掃除がしやすい大きな穴。

 

骨を触ってもいいかと尋ねると、係の人が手袋を外し、素手でそっと骨に触って温度を確かめてから、「熱いのでお気をつけください」と言って手のひらで「どうぞ」と促しました。恐る恐る父の骨に触れてみると、予想以上に熱くすぐに手を離しました。

 

骨壷の入った箱を両手で抱え、自分の荷物と母の荷物を肩にかけます。兄は遺影を胸の前で掲げたので、母の身体を支える人間が足りなくなりました。母はとても弱っていて、支えなしにひとりで歩くことができなくなっていました。困っていると葬儀社から派遣された女性が母を車まで連れて行ってくれました。遺骨を車のどこに載せようか悩み、後部座席の母の隣でいいのではと兄に言うと、そばに立っていた葬儀社の女性スタッフが、私が助手席で、箱を膝に乗せるようにとアドバイスをくださいました。

 

離婚して子供のいないわたしは、自分自身のことを考えました。兄も未婚で子供はいないし、兄や自分のパートナーが亡くなったとき、わたしはひとりぼっちで、骨壺と位牌と遺影をどうやって持ったらいいのでしょう?

 

車の助手席で、父の骨の熱が徐々に膝に伝わってきてとても熱く、そしてずっしりと重さを感じました。

[23]火葬3 納棺のしきたり

冷やされた部屋に、白装束を身に纏った父が寝かされており、亡くなった日から三日振りのご対面です。

水に浸した大きめの綿棒で唇を濡らします。それから、水で濡らし固く絞ったタオルで手足を清めます。父の両手は白く大きく浮腫んでいて、触ると氷のように冷たくなっています。

母が「こんなに冷たくなっちゃって……」といいながら、泣きそうな顔で父の手を握りました。その指の爪が伸びているのに気がつきました。入院前に知っていたのですが、一週間の入院予定だったので、入院中に病室で切ってあげようと思っていたのでした。まさか、それから一切父に会えなくなるなんて思わなかったのです。あの時、切ってあげればよかったと後悔していると、葬儀社の方が父の爪を切り始めました。その所作はとても丁寧で上手でした。わたしは安心しました。

 

葬儀社の方が部屋から出ていくと、兄がつと立ち上がって、「これは何の木かな?」と言って、棺桶の蓋の素材を確かめていました。それからポケットから酸素濃度測定器を取り出し父の指に挟みました。もちろん測定不可能です。変な人……。理系の人のやることは理解できません。

 

兄はいつも笑っていて、面白がっています。意外とポジティブだったんだな。これってもしかしてパパの血なのかしら? わたしが悲観的なのはママからの遺伝?

そういえば、父は脳梗塞のあとも、「歩けるようになって旅行に行く」とか、「車を買う」なんて言っていたのを思い出します。

 

再び葬儀社の方が部屋に戻ってきました。

葬儀社の方おふたりと、兄とわたしで、父の下に敷かれたシーツの端を持ち上げて父を棺桶に納めました。

 

足先の隙間がほんの少しだけ空いている程度で、大きさはちょうどよかった。亡くなった日に葬儀社の打ち合わせで、棺桶の大きさを決めるときに、父の身体が大きめなので、1つ大きい棺桶を勧められ、それが数万円高かったのでわたしは躊躇したけれど、出し惜しまないで本当によかったと思いました。

 

三途の川を渡るには六文必要らしく、寛永通宝の銭貨が印刷された紙片を巾着に入れ、父の首に掛けました。

 

父はいつも出かける前に「帽子、帽子」と言って、それだけは忘れまいといしていました。わたしが帽子をかぶせてあげると、父は顎を突き出すように首を上にあげるので、帽子のゴムを顎にかけてあげます。そうすると父は満足そうに「はい、はい」と言っていました。

 

動かなくなった父の頭に帽子をかぶせてあげますと、母がうれしそうに「あぁ、いつものお父さんになったわ」と微笑みました。

 

棺桶に納まった父の胸の上に、布で包まれた細い板のようなものが置かれました。

「これは何ですか?」と葬儀社の方に伺うと、「守り刀」だと教えてくれました。魂が抜けた体には、魔物が入りやすくなるので追い払うためだそうです。

 

それから、来世へ歩いて向かうための、火葬用の小さな杖を棺桶に入れます。葬儀社の方が、父は右利きか左利きか尋ねました。わたしが右利きだと答えると、兄が「脳梗塞で右半身が使えなかったので左においてほしい」と言いました。即座に答えられるところ、わたしよりずっと兄の方が父に詳しいと感じました。

葬儀社の方が、「あの世では生前の一番元気だった頃にもどりますので、体の不自由はなくなりますよ」というので、杖は右手の脇へ置きました。ほかに藁でできた傘や草履も入れました。

 

父の眉間に皺が深く刻まれていたので、消えないものかと指でゴシゴシ擦りますと、額の肉が凹んで戻らなくなってしまいました。ごめんなさい……。

 

わたしが高校生ときに祖父が、25歳のときに祖母が亡くなりました。そのときは遺体のことを「死体」と感じ、少し気持ちが悪いという感覚を持ってしまい、触ることに抵抗がありました。しかし、父に対してはまったく不快感がなく、いつまでも手や足や顔を触っていました。葬儀社の方が父の身体をとても清潔にしてくださったこともその理由だったと思います。

こういった細かい部分に、葬儀の値段が加算されているのなら、高いということは全くないと感じました。

 

[22]火葬2 雨男の遺影

台風が近づいているようで、雨風が強くなってきました。駅前に迎えに来た兄の車にスカートをたなびかせながら飛び乗りました。

 

助手席に座り、後部座席にちょこんとおさまっている母を振り返って

「ママ、大丈夫?」と声を掛けます。母は消え入りそうな声で「うん。大丈夫よ」と答えました。

 

フロントガラスに叩きつけるように降っている雨を見て、兄が言いました。

「お父さんって、けっこう雨男なんだよね。何かやろうとすると、雨が降ってくることがよくあったなぁ」

 

そうなんだ……。

わたしが若いころ、父はわたしに言ったことがあります。

「『わたし雨女なの』、なんてことは絶対に口に出して言わないほうがいい。天気なんてのは誰のせいでもないのに、そういうことを言う人がいれば、その人に責任をおしつけるよう場の雰囲気になってしまうから」。

あれは、もしかしたら、自分自身に言ったことだったのかな?

 

葬儀所へ到着すると、父の写真がきれいに加工されて額に収まっていました。白髪はふっくらと整えられ、表情はやさしく、そして首から下は、先日葬儀社のウェブサイトで選んだツイードの背広にえんじ色のネクタイをしています。その服装はまるで、元から父の持ちものだったような自然さで、無理な若返りもなく、しかし本物より少し清潔で格好良くできているのです。最新の写真加工技術とセンスに感動いたしました。

 

わたしは書籍や雑誌のデザインの仕事をしていて、写真加工の作業もよくやっていたので、父の遺影の加工を買って出ようと思っていたのですが、わたしなどより遥かに技術が上で、自分でやらなくて本当によかったと胸を撫で下ろしました。

 

そして母が言いました。

「わぁ、写真すごくステキになってるわね。これ、お兄ちゃんが全部やってくれたのよ、上手ねぇ」。

いやいや、これは葬儀社さんがやったのであって、兄がやったのはウェブサイトで、数種類の背景と服を選択しただけです。

 

母も一緒にいたのに……。母も父のように、だんだんといろいろなことを忘れてしまうのでしょうか?

 

 

[21]火葬1 ネックレスの長さ

クローゼットの奥から喪服を引っ張り出しました。7年前に、母の姉である伯母が亡くなったときに慌てて買ったものです。袖が長かったのですが、葬儀の前日でしたのでお直しも間に合わず。伯母の葬儀が終わったら直そうと思ってそのままになっています。わたしは万事において、そういうところがあります。

 

袖の長すぎる喪服を着て、パールのネックレスを首にかけてみますと、妙に短いように感じました。

「これ、おかしくないかな?」

父を火葬する朝だというのに、そんなことが気になって仕方がありません。

 

兄と待ち合わせの時間までには少し余裕があり、駅前にあった古い貴金属店を見つけて入ってみました。入り口付近で控えめな笑顔を見せてくれたお店の老婦人に、ネックレスの長さを調節するアジャスター を置いていないか伺いました。

ベルベットのトレーに、3つほど長さの違うアジャスター を見せてくれましたが、どれも高価なものばかり。迷っていると、その老婦人がわたしの喪服を見て

「失礼ですが、今からお葬式ですか?」と尋ねました。

わたしは「そうなんです。それで、このネックレス短すぎると思いまして」と答えると、その老婦人は静かに

「いいえ、その長さでぴったりだと思えます。長すぎると、不幸が長引くと申しましてよろしくないんです」と教えてくださいました。

 

不思議と、そう言われたら、鏡に映る自分の首元がしっくりくるように見えてきました。

 

知恵をさずけていただき、ありがとうございました。

[20]母と年金事務所

母と年金事務所へ行きました。父の年金支給差し止めと、母が受給できる遺族年金の手続きのためです。

年金事務所のガラスの自動扉に、手を繋いだ母と私が映りました。腰が曲がった隣の母を見て、わたしは思わず「なんて小さいんだろう」と驚きました。子供の頃、授業参観で母が来てくれたとき、他のお母さん方の中で一番きれいで、背筋がスッとのびている立ち姿が誇らしかったものです。その母の姿はもうありません。

 

年金事務所の相談窓口で、担当の方が説明してくれている間、母は心ここにあらずと言った表情で、焦点の合わない目でボーッとどこかを見ています。つい、説明しても分からないかなと思うのと、急いでいるというのもあり、母を蔑ろにして話を進めてしまうときがよくあります。

 

今、「ないがしろ」という文字を変換したときに「蔑」という漢字が表示され、少し背筋が寒くなりました。母をそんなふうにわたしは扱ったのか、と。

 

帰ってきてから仕事で検索をしていたときに、偶然「ユマニチュード」という言葉が飛び込んできました。はじめて聞く言葉です。調べてみると、認知症ケアの新しい技術だということ。

 

目を合わせる、笑顔で話しかける、身体に触れる。

 

母はまだ認知症ではありませんが、わたしは母に会うと常に身体を触っています。大抵は肩と背中を揉んであげています。ですから、「触れる」に関してはクリアされていますが、目を合わせているか?と問われると、自信が持てません。

 

今度会うときに、意識してみようと思いました。